| 1977年 | 映画ジャーナリストの坂井健二が、シドニー市内東部ダブルベイで会社設立。当時400~500人しかいなかったシドニー在住の日本人を対象に向けてタブロイド版8ページの日本語新聞「日豪プレス」創刊。パソコンはもちろんワープロもなく、写植機と和文タイプによる手作りの紙面。 |
| 1990年 | オーストラリアを訪れる日本人観光客の増加に伴い、観光情報誌「ミートパイ」創刊。
日本人観光客の増加を背景に順調に経営規模を拡大、手狭になった本社事務所をシドニー市内東部ラッシュカッターズ・ベイに移転。
80年代後半よりバブル経済を背景にクイーンズランド州南東部で日本企業による不動産投資ブームが巻き起こる。ゴールドコーストに支社を開設、「日豪プレス・クイーンズランド版」創刊。 |
| 1991年 | 日系企業の対豪投資と直接進出の増加に伴い、ビジネス紙「日豪プレス・レビュー」創刊。 |
| 1995年 | 1月17日、阪神・淡路大震災が発生。日豪プレス初の義援金を創設。 |
| 1996年 | ハワード首相率いる保守連合政権が誕生、日豪プレス初の号外発行。同年から97年にかけて、来豪日本人数は年間約96万人のピークを迎えたが、その後減少し続け2010年には最盛期の約3分の1まで落ち込んだ。代わって留学やワーキング・ホリデーの渡航先としてオーストラリアの人気が上昇。この頃を境に、主な読者層や広告主の訴求対象は、観光客から増え続ける永住者や留学生にシフトしていった。 |
| 1997年 | 創刊20周年記念号を発行。
初のウェブ版「nichigo.com.au」スタート。 |
| 1998年 | さらなる業務拡張に伴い、本社事務所をシドニー市内中心部ジョージ・ストリートに移転。 |
| 2000年 | シドニー五輪開催。期間中、週刊の五輪特別号を発行。 |
| 2001年 | 米同時多発テロ発生。米・英とともにアフガニスタン侵攻に加わったオーストラリアではテロ攻撃の危険が高まる。 |
| 2001年 | 留学生の拡大に伴い、留学情報紙「スチューデント・ニュース」創刊。 |
| 2002年 | 創刊25周年期年号を発行。四半世紀に及ぶ日豪関係の変遷を振り返った。 |
| 2006年 | オーストラリア第2の都市である南部メルボルン事務所開設。「日豪プレス・ビクトリア版」創刊。
オーストラリア人の間で日本へのスキー旅行需要が拡大、アニメなど日本のポップ・カルチャーが浸透していることを背景に、当社初の英語による日本情報誌「Jスタイル」創刊。 |
| 2007年 | ウェブ版を「25today.com」としてリニューアル。ニュースの速報性を高めるとともに、求人・住まいなどの情報が書き込めるクラシファイド機能を充実させた。
創刊30周年記念号を発行。 |
| 2008年 | 世界金融危機。オーストラリアは資源価格の下落による悪影響が豪ドル安で相殺され、大胆な景気刺激策も奏功する形で景気後退を回避、かすり傷で危機を乗り切った。しかし、日本は深刻な不況に陥り、読者の生活や広告主のビジネスにも影響を与えた。 |
| 2010年 | 外務省がこの年発表した統計によると、オーストラリアの日系・在留邦人数は前年比約7%増の7万1,013人(09年10月時点)。国別では米国、中国に次いで3番目に多い。日本とオーストラリアの力強い結び付きが改めて示された。すべての在豪日本人に読んでもらえるよう、日豪プレス全国版の発行部数も3万部まで拡大。 |
| 2011年 | 3月11日東日本大震災発生。海外から復興を支えようと立ち上がった在豪日系社会の取り組みを報道するとともに、被災地の復興を支援する義援金を創設。
5月、本社事務所移転。
7月、オーストラリアのニュースや生活情報を伝える当社ウェブサイト面刷新、新聞とウェブのメディア統合を加速。 |
1977年10月創刊号
創刊号表紙はシドニー・ハーバー・ブリッジとシドニー・オペラ・ハウス。著名人インタビューは国際的なデザイナーとして名を馳せた森英恵氏。
1979年9月号
ベトナム難民問題が表面化。連邦政府は翌80年までに3万7,000人のベトナム難民を受け入れた。来豪したベトナム政府要人のスピーチ・セレモニーではベトナム難民による抗議デモも起きた。
1980年2月
大平首相が来豪。フレーザー連邦首相との会談ではワーキング・ホリデー制度の開始で合意した。当時、豪州への日本人訪問者数は年間3万4,000人だった。
1981年2月号
オーストラリア連邦政府は1979年1月、点数制による移住審査方式を導入した。しかし、2年後の81年には同方式を再検討するべきだとの声が高まっていた。
1982年12月号
エアーズ・ロックで起きたアザリアちゃん(生後9週間)失踪事件(通称「ディンゴ・ベイビー事件」)で、殺人と従犯の容疑で起訴された両親のチェンバレン夫妻が有罪判決を受けたが、後に夫妻は無罪となり釈放された。この冤罪事件はメリル・ストリープ主演で映画化された。
1984年7月号
オーストラリア原産のエリマキトカゲが日本で三菱自動車のコマーシャルに採用され、コアラをしのぐ大人気となる。日本の業者からの輸入の注文が殺到し、オーストラリア政府を慌てさせた。
1985年7月号
オーストラリアの観光産業が日本人観光客の誘致に力を入れた。日本航空とカンタス航空は成田-シドニー線の直行便を増便した。
1986年4月号
NSW州政府がシドニー湾に総工費3億5,000万ドルの海底トンネルを建設すると発表した。日本のゼネコン大手熊谷組とオーストラリアの建設大手トランスフィールドの日豪合弁による大型プロジェクトとなった。
1987年11月号
世界の株式市場で株価が大暴落した「ブラック・マンデー」。オーストラリアの株式市場もこれに追従して急落した。
1988年7月号
オーストラリアが建国200年を迎えた。竹下首相が来豪して祝辞を述べた。なお、当時の世論調査によると、ホーク首相への支持率は75%(同年4月)と歴代首相と比較してはるかに高い支持率を記録しており、非常に強い人気を誇っていた。
1989年12月号
アジア太平洋経済協力会議(APEC)の第1回閣僚会議が11月、キャンベラで開催された。12カ国の外相・通産相などが出席した。欧州共同体(EC )の市場統合が92年に予定されるなど世界経済のブロック化が進む中で同地域の経済的な連携強化を図る動きだった。
1990年8月号
不動産投資の行き過ぎから中小金融機関の経営が相次いで破綻。バンク・オブ・メルボルンでは取り付け騒ぎが発生、連邦準備銀行があわてる一幕もあった。
1991年2月号
1月17日、米国を中心とする多国籍軍とイラクの間で湾岸戦争が勃発した。シドニー・モーニング・ヘラルドの世論調査によると、77%がイラク攻撃を支持、オーストラリア軍の派遣も67%が賛成した。
1992年7月号
国営カンタス航空の完全民営化が決定した。同社をまず国内線専用のオーストラリアン航空と合併させた上で、合併会社の株式を100%売却する方針に転換した。
1993年10月号
国際オリンピック委員会(IOC)は、2000年夏季五輪の開催地をシドニーとすることを決定した。オーストラリアでの五輪開催は1956年のメルボルン以来。これを起爆剤として、キーティング首相は憲法を改正して2001年の共和制移行を目指す考えを明らかにした。
1995年3月号
メディア王として知られるケリー・パッカー氏は、地方紙シドニー・モーニング・ヘラルドなどを所有するメディア大手フェアファックス社の所有株比率を17.5%まで拡大し、同じ都市内で新聞社とテレビ局の経営権を同時に所有することを禁じた連邦政府のクロスメディア法を無視する行動に出た。
1996年9月号
ハワード首相率いる自由・国民党政権は、政権奪取後初の連邦予算案で、中流階級への優遇政策を掲げた。一方、福祉予算などの大幅な歳出削減と税収増による財政改革に乗り出した。3年後をめどに財政収支の黒字展開を目指した。
1997年9月号
ハワード政権は税制改革を重要課題に掲げ、取得減税とセットで10%の財・サービス税(消費税=GST)を導入する方針を発表した。
1998年7月号
QLD州総選挙でポーリン・ハンソン連邦下院議員率いるワンネーション党が2ケタ議席を獲得した。急進的なナショナリズムを掲げる同党の躍進は、政界に強い衝撃を与えた。
1999年8月号
ハワード首相が日本を公式訪問し、小渕首相と首脳会議を行った。昼食会でハワード首相は復活の兆しを見せ始めた日本経済に強い期待感を表明した。
2000年10月号
シドニー五輪が開幕。9月15日~10月2日の17日間、世界のスポーツ選手約1万5000人が参加した。日本勢は女子柔道の田村亮子、女子マラソンの高橋尚子など合計5個の金メダルを獲得した。
2001年10月号
9月11日に起きた米同時多発テロを受け、ハワード首相はオーストラリア・ニュージーランド・米国相互安全保障条約(アンザス条約)第4項を発動。集団自衛権を行使してオーストラリアが対テロ戦に参加する姿勢を明確にした。
2002年1月号
世界水泳界のスーパー・スターとなったイアン・ソープ(当時19歳)を本紙が独占インタビュー。世界記録の続出と甘いマスクで日本でもソープ熱が沸騰していた。